明淡高速船からJR西日本への連絡きっぷです。
岩屋港から明石までの高速船のきっぷと、明石からの380円区間(三ノ宮)の乗車券がついた形です。
このような連絡乗車券は昔は中小私鉄とJRとの間でよく販売されてきましたが、最近は減少傾向になっています。
また明淡高速船自体5月での休止(1年間)を申請していましたが、当面12月までは運航されるようです。
なぜ運航休止寸前まで追い込まれたのかというと、もちろん明石海峡大橋経由のバスの存在ですね。
普段は明石海峡大橋を渡るバスなんですが、たまには・・・ということで、この明淡高速船を利用することにしました。高速船ですから、当然小型です。
この日は風が強く、瀬戸内海はやや荒れ気味。
小さな高速船は結構揺れます。
さらに間が悪いことに目の前を、大型フェリー「さんふらわあこがね」(多分)が通過。
その後を進むから、フェリーが立てた波でゆら~りゆらり。
内海だからあまり揺れないだろうと思ったのですが、結構揺れるもんですね。。。
明淡高速船は昔播淡汽船といい、フェリーを運航していましたが、明石海峡大橋の開通で需要が激減、高速船として今に至っています。
昔、播淡汽船に何度か乗りましたが、結構盛況だった記憶がありますが、時代変われば・・・の典型例ですね。
コメント
トラバありがとうございます。
今回は私の記事の通り明淡高速船に乗船していませんが、たこフェリーと比べると、岩屋港の待合室は活気がないように見受けました。
少し疑問なのですが播淡汽船(播淡聯絡汽船)は、いつ頃までフェリーを運行していたのでしょうか?私が初めて乗船した平成6年頃は淡路連絡汽船と共同運行体制の高速船専門の会社でした。
明石と岩屋を結ぶフェリー会社は現在は、たこフェリーとなった“♪海のハイウェー”明石フェリーと明岩海峡フェリーが担っていました。
フェリーに初めて乗ったのは1985年ごろだったと思います。
で、高速船専門になったのはたしか1992年ごろじゃなかったかと思います。
(すみません、当時はあまり興味がなくて記憶があいまいです・・・)
当時はあまり気にはしてなかったのですが、運賃が高速船化されて値上げされてしまい、
並行する昼間乗れない明岩フェリーのほうが安くなったので、「なんだかなあ・・・と思ってたことが。」
ありがとうございます。
高速船は、鉄道との乗り換えが不便なこともありますが、明石の中心に近い立地なので、善戦するかもと思っていましたが、苦戦することになるとは予想できなかったですね。
播淡汽船(播淡聯絡汽船)や淡路連絡汽船がフェリーを運航していた記憶はありません。昔から純客船でした。明石海峡大橋が出来る前に高速船になっていました。
明石ー岩屋のフェリーは汽船会社ではなく戦後長らく日本道路公団の経営だったと思います。道路公団がフェリーをやめるときに航路を譲渡されたのが明岩海峡フェリーだったはずです。確かにフェリーが昼間は乗客のみを扱わない時代が長くありました。フェリーはさらに会社が改組されて今のタコフェリー(正式には明石淡路フェリー株式会社)になったはずです。
ちなみに「♪海のハイエイ!」ーの歌は淡路フェリーボートという会社の淡路フェリーで、航路が違います。たしか須磨ー大磯でした。大証一部上場企業でしたが、今はありません。道路公団と淡路フェリーは鳴門海峡側でもフェリーをやっていました。こちらにも純客船の阿淡連絡汽船という会社がありました。懐かしいですね。
ご指摘ありがとうございます。
やっぱり記憶はあてになりませんね。
行きは親戚の車に同乗して、帰りは車なしだったので、同じ船とばかり思い込んでいました。
(会社名は覚えてませんが、たぶん違う会社のだったのでしょう。)
気になって昔の時刻表を取り出すと、
「フェリー」ではなく「船」表記だったので、やはり誤認していたようです。
ただ乗り場はいずれも国鉄明石駅から、山陽の踏切を越えてまっすぐ海側に向かったところにあって、今の高速船乗り場とは違ってたような・・・?
はい、フェリーの乗り場は今も同じです。道路公団の時代から明石側も岩屋側も今と同じです。要するに在来汽船の会社や乗り場と、フェリーの会社や乗り場は、ここでは全く違います(お互いの間は歩いて行けますが)。道路公団が道路の代わりに自動車を運ぼうとしたフェリーと、淡路島と明石市を結ぶ航路とは根本的に考え方が違っています。青函連絡船と東日本フェリー(旧道南(蔦井)海運、現リベラ)の乗り場が全く違うのと同じように考えていただければと思います。なお国鉄連絡は播淡連絡(聯連)汽船、阿淡連絡汽船、淡路交通、関西汽船(洲本神戸航路)でした。
昔の夏の海水浴シーズンの岩屋ターミナルのにぎやかさはすごかったですが・・・遠い話ですね